HONUうみの亀さま(2016)
1 Mana of sea
2 森の鼓動
3 HONUうみの亀さま
4 うねり
5 鳥の報告
6 ホヌと共に
7 真輪真輪の宴
8 美しい地球の影
9 ホヌに捧げるパラード
「KIRILOLAの最新アルバム『HONUうみの亀さま』(ぬりえまき)を繰り返し聴いている。KIRILOLAのコンサートについては昨年12月にここに書いたが、これはその音楽の再構成バージョンである。この作品は現代的芸術的構成要素が多い。
まず、「vocal」とは言わずに「voice」と言う。「歌」よりも「声」だと言うのである。その通り、この音楽におけるKIRILOLAの声は、もはや「歌」ではなく、宇宙の彼方を経由して海の底から伝わってくる「音波」と化している。鳥の声もフルートの音も見分けが(聴き分け)ができない実は人間の声。
第1曲は「Mana of sea」だが、これに絶妙のアコースティック・ギターとホッピー神山のシンセサイザーDigital President/SeaLoopが付く。「付く」と書いたが、これはどちらも独自の世界を聴かせる名演なので、「協奏」と言うがふさわしい。そしてKIRILOLAの声は、最早人間の声とは思えないものになっている。
第2曲は「森の鼓動」。「バック」(協奏)は、ネイティブ・アメリカン・フルートのポール・ワグナーとパーカッションの岡部洋一。この演奏は圧巻である。各奏者が思いっきり主張してそれが同時に呼応し合い、音楽を一人ではなく協奏した時に起るあの輝きが、これまでの物とは違う新しいものとして現象してくる。ここでもKIRILOLAのvoiceは自在である。
第3曲は表題の『HONUうみの亀さま』である。これは例によって完全KIRILOLA風味の歌だが、何かがこれまでと違っている。♫「HONUうみの亀さま 幸せを運んでくれるうみの亀さま」とはっきりと意味が聞き取れる歌詞で歌われるが、その内容は亀を通じての海の汚染についての柔らかな訴えであり、「ゆっくりと急げや~」と繰り返し歌われて、その上で、「間に合うのか、間に合わないのか」が繰り返されるが、これも絶妙の声の音で、「間にアワ間にヤワ」とかまるで動詞の活用形のようなものが連続して歌われ、ムードが高まって伝わってくる。
第4曲は「うねり」。KIRILOLAの声はますます冴え渡る。
第5曲に「鳥の報告」。ワグナーのフルートとKIRILOLAの声が、まるで鳥の声のように混ざり合って演奏される。
第6曲「ホヌと共に」では、「ナカキヨノ トオノ ネフリノ ミナメザメ ナミノリフネノ オトノヨキカナ」と美しい声で囁く。この人は本当に「voice」ということについてどこかに到達してしまっているのだ。
第7曲に「真輪真輪の宴」。これはキリロラ☆率いるオノコロボイス隊が、ディジュリドゥの通奏音に見事に合体して、にぎやかにマワマワを繰り返すが、これが輪唱ともケチャとも言えぬ何とも不思議な民族世界を醸し出す。この音楽構成は「見事」の一言としか言いようがない。
第8曲が「美しい地球の影」はキリロラ☆のメッセージ・歌唱であるが、これにこれまでの全ての楽器にさらにコントラバスが加わって大団円演奏される。ここには、かつての日本の歌謡曲に見られるようで見られない、まとまっているようで破天荒な、味わったことのない中途半端な盛り上がり感をそのまま見事に聴かせる全く新しい演奏となっている。
最後は「ホヌに捧げるバラード」であるが、ホヌのためにハワイ語か何かわからないが、もはや意味は全く関係ないようにKIRILOLAのボイスそのものが響き渡る。
「わかったからねホヌ」とでも言いたいのか、いやそんなことを超越した境地を与えてくれたことに感謝して「Voice」が行なわれる。
人間の声の可能性の最大限の追求。それを「演奏」として実現してみせるために、ありとあらゆるその道の名手を正に「不思議さ」をその引力に協奏させ、その良さと愉しさを最大限に引き出して、音楽を作り上げてしまう。それは自分はどんな音でも楽器の奏でるものと協奏できる、「歌」ではなく「voice」に到達していることの表明である。そこには「癒し」の要素もある。それは一切の苦しみを忘れさせる何かである。そこには「笑い」の要素もある。変に真面目がかることから見事に免れている。そしてそこに本当にあったものは「祈り」そのものなのではないか。
だから「芸術」として昇華する。これは音楽に耳が肥えた外国で絶対に受ける新しいものである。そこになかったモノを生み出す芸術家の営為の連続とそのエネルギーには常に驚きを禁じえないが、それはこのようにいつかは偉大なる作品ができることを祈ってのことに違いない。心からその達成を祝福し、さらなる活動の展開を期待したいと思う。読者にお勧めする。これは一聴の価値ありである。」
文章 作家 松永暢史