松永暢史さんの感想
4月3日に東京の南青山MANDALAにて開催されました「KIRILOLA 20周年記念ライブ」
作家で教育者の松永 暢史さんがライブの感想文をブログにアップしてくださいました。
写真と共にシェアいたします。
先週はよく雨が降った。桜が咲き始めてから雨が降った。しかもそれは細々ながら24時間以上続いた。珍しいことである。
1980年の春。私はインドカシミールのナギン湖のハウスボートにいた。
3月20日に私はシュリナガルの空港に降りて、飢え乾いたイスラム教徒の客引きにごちゃごちゃにされている中で、そこにいる唯一の私以外の観光客の西洋人に目を止めて、質問した。
「Which lake will you go?」すると相手は、
「Of course the Nagin」と答えた。
私はこのイギリス人とオートリキシャに乗って、ナギンレイクのそんなに高級ではないハウスボートに着いた。
ハウスボートと言うのは、湖に突き出した先端から縦長に「スモーキングルーム」、「ダイニングルーム」、「ベッドルーム」、「トイレアンドシャワー」の部屋割りになっていた。
2~3日して、このイギリス人は「ラダックの祭典に行ってくる」と言って出かけて行った。
一人ハウスボートに残された私は、目の前のヒマラヤを映し出した湖で一人で小説を書こうとしていた。
すると、夜に雨が降り始めた。そしてこの雨は、明くる朝起きてもまだ降っていた。そしてそのまま一日中降り、夜も降り続け、あくる午後まで降り続いた。30時間以上降り続いたことになる。
30時間雨が降り続けるとどうなるか。初め私の滞在するハウスボートは岸に繋がれていたはずが、大雨のためにどんどん水かさが増して、湖の直径が倍以上になったので、まるで岸から離れた湖の真ん中にいるような塩梅になった。
すると、湖を取り囲んだ木が一斉に花を咲かせた。それは桜によく似たものだったが、真っ白な花だった。
舟のボーイに聞くと、
「バダーム」と答えた。これはアーモンドのことだった。
私はアーモンドと桜が同じ種類であることを初めて知った。
冬季最後の湖に、私以外の観光客はいない。
私は毎日押し寄せる物売りの相手と、ヒマラヤを背景にして湖上に姿を映すアーモンドの花を満喫した。
さて、この花が散ると、驚いたことに、空に現れたのは紛れもなく、真夏の灼熱光を放つ太陽だった。
インドカシミールでは春が1週間しかない。冬の次は1週間で夏である。
つまり、「三寒四温」なんて風情がない。
後でよく考えてみれば、日本の方が特殊なのであった。
徒然草に、
「折節の移り変わるこそものごとにあはれなれ」
とあるが、また、枕草子に、
「すべてひととせながらいみじゅうをかし」とあるが、
海に囲まれた温帯モンスーン気候の日本の季節の移り変わりは実に繊細である。
雨が上がり桜が満開になった3日、南青山MANDARAでKIRILOLAのライブに接した。
これは、「KIRILOLA」としてソロ活動20周年と銘打ったもので、岡部洋一(鳴り物=パーカッション)、鬼怒無月(きどなつき=ギター)、坂本弘道(チェロ)、Koji Mtsumoto(デジュリドゥ)のメンバーによるもので、わざわざ出かけた甲斐のある驚くべき高水準のパフォーマンスだった。
前にも書いたことがあるが、単に一流のミュージシャンが集まるだけでは何かが足りない。
そこにはやはり、「花」が欲しい。
「アメノウズメ」が欲しい。
歌と踊りがないと「楽」にならない。
そしてそこに、それが単なる音楽ではなくて、かといって祭りでも儀式でもなくて、そこに他の言葉で表せないパフォーマンスを現出する。
これには個々の音楽家が自由かつ積極的にその場を作っていこうとする「合意」が必要である。
岡部のジャンベは、張り詰めた皮に心の奥底を叩き込む独自の高い響きを奏でる。
鬼怒のギターは、場を崩さずにそれ以上のあくまで高度な空間を演出してミスがない。
チェロの坂本はぶっ飛びだ。「弦」の音の永遠性。完全に彼方の世界に行って「宇宙」を現象させる。
マツモトのディジュリドゥは、なぜこの楽器があるのかわからせる。そこではその場に合った「息」の存在の必要性を思い出させる。
こうして、世界のありとあらゆる音楽と異なった、ありとあらゆる要素を集めた音楽が構成される。
前衛でもない。エスニックでもない。ヨーロッパでもない。アフリカでもない。カリフォルニアでもない。神道でもない。岩系でもない。縄文系でもない。
そこにキリロラのかつてない他のどこにもない世界が現れる。
新しいミュージック。
美しいキリロラ姫は、歌い舞う。
場面によくマッチしたお洒落な衣装デザインと髪飾り。
その歌もメロディーも、どちらもかつてないもので、何かの価値判断の停止を伝え上げる。
「自然」との交歓。
彼女は音楽は天からやってくる、と言う。
そしてそこに生まれるのは、通常現代社会感性に迎合しようとない、むしろそれまでの感覚に意を唱える真に先進的な芸術表現。
意図的な「落差」。
「落差」があることの表出。
絶対にどこにもないが、だが確かにここにある表現。
ここにしかない音楽。
それは「ジャンル」を意識的に逸脱しようとする芸術行為とも言える。
この芸術家は、単に自己のできることをしているのではない。
自己のすることの可能性の連結を予想、期待して、その先へ向けて自己感性の拡張の実験を行なっている。
苦しみ、悲しみ、そして無理解、不可解。
ここに、それらは全て「昇華」される。
偉大なる感受性がそれを乗り越えて未来を創造する。
優れた音楽家たちとともに。
白い虎の月アカリ LIVE アップしました ! !
「 Lullaby of Moon Goddess 」
月の女神の子守唄 ビデオアップしました !
『カタカムナウタヒ』 ビデオ完成!